東日本大震災復興状況

ずっと、「日本人なら東日本大震災復興状況を共有すべき」と思っていましたが、やっと実現しました。

以前テレビで見ていた、南三陸ホテル観洋の取り組みを実感しました。地震時のお客様避難の状況。電気水道が止まる中、帰れないお客様や避難してきた地域住民のお世話。学校へ行けない子どもたちに寺子屋や、大人には沈む心を癒すイベントなどで、地域のために力を尽くしてこられました。「震災を忘れてはならない」と当ホテルが運行されている語り部バスに乗ることができました。

満員のお客様で、大型バス2台。あまりに悲しい状況に、また地域の方の心情を思うと、写真はあまり撮れません。

語り部バスで、まず第一声は、「みなさま 当時多くの寄付やご支援をありがとうございました。」でした。私たちにできることは、本当に微々たることで、申し訳ないです。

まずは、戸倉地区。こちらの小学校・保育園はもちろん津波に襲われましたが、チリ地震津波の被害があった場所で、先生方の事前の避難についての話し合いが度々行われて、小学校屋上でなく、近くの小高い丘に避難して犠牲者はありませんでした。それより高い位置の中学校では、山の方向から海の方向からと波が襲い、救助に出た中学生や地域住民が流されたそうです。こんな高い所(23.9m)まで津波がと、涙涙で、写真は撮れません。

次に高野会館。当日はイベントがあり、地震でスタッフさんの声掛けで、皆さん屋上に避難して助かったそうです。この建物は、考えられないほどのコンクリートで強固に作られているため、窓ガラスは割れているものの、津波にも打ち勝ちました。

そのすぐ近くの南三陸町防災対策庁舎。24歳の女性職員が、ずっと住民に避難を促す放送をして亡くなった所です。津波は12mを超え、屋上に避難していた方もほとんど流されたそうです。

語り部バスの最後は、「ここのことを忘れないでください。今日見た聞いたことを周りの方にお話の上、万が一の話し合いをしておいてください。」でした。この日バス2台で、7〜80人がこの話をお聞きしました。みなさま 帰ってこの話をされていると思います。

女川町では、旧女川交番。ひっくり返ったまま遺してあります。

74名の小学生が犠牲になった旧大川小学校。ここには確かに、子どもたちの生活がありました。地震後、50分も校庭で、どこに避難するかの話し合い後、近くの橋にと移動し始めると川から山から波がきてぶつかり合い、校庭でグルグル回ったそうです。すぐ近くの裏山に上らせていればと、誰でも考えます。でも、この地域では、今まで大きな被害もなく、危機意識が高くなかったそうです。

海岸近くの低い地域は、今はどこも空き地になっていますが、そこには震災以前何百軒の暮らしがあったのです。高台に○○団地と看板があり、新しい家が並んでいます。この地を後にした方も多いでしょうが、新しい生活に立ち上がる人々もいらっしゃいます。微力ですが、供花をし、買い物をして応援し、復興をお祈りしました。

想定をはるかに超える自然災害が起こります。生死を分けるのは、日頃の危機意識と話し合い・訓練だと実感しました!